交差する二つの世界

作:湖畔のスナフキン

第七話 −奇跡の価値は− (02)




「おキヌちゃん、その考えは甘いと思うわ」

 除霊の仕事が終わって、シンジと横島が帰った後、事務所で美神とおキヌがお茶を飲みながら、井戸端会議に興じていた。
 今日の話題は、シンジとアスカのキス未遂(みすい)事件である。

「アスカって子が好きなのは、加持という人なんでしょう?
 あくまでその人が本命であって、シンジ君は保険だと思うわ」

「でも、好きじゃない人に、普通キスなんてしようとしませんよね?」

 美神のシンジ保険説に、おキヌが反論した。

「少なくとも保険の対象にするくらいだから、嫌ってはいないんじゃないの?
 あと彼女ドイツ育ちだから、私たちより、キスに対する抵抗感が少ないのかもしれないわね」

「そうでしょうか……?」

 美神はテーブルの上に置いていた茶碗をもち、お茶を一口飲んだ。

「あと、キスで相手をキープできるのなら、しちゃってもかまわないって計算したのかも」

 おキヌは始めて妙神山に行ったときに、美神が「キスしてやるかわりに言うことを聞け」と横島に言ったことを思い出した。
 もっとも、その頃の美神は打算で横島を誘惑できたが、今の美神にはそういう真似はできないであろう。

「シンジ君の話だと、加持さんは三十歳くらいみたいですよ。
 三十歳の加持さんと、十四歳のアスカちゃんでは、いくらなんでも釣り合いませんよね?」

「たぶん彼女自身は、そうは思ってないんじゃないのかしら?
 十四歳の女の子が自分を客観的に見れるのなら、最初からそんな大人は追いかけないわよ。
 それでも、彼女が同い年のシンジ君に関心を持つようになったのは、彼女にとって進歩なのかもしれないけどね」




 いつものストーン・サークルで横島と別れたシンジは、夕暮れの中、マンションへの道を歩いていた。
 アスカが自分に好意をもっているかもしれないと言われ、シンジは一時舞い上がっていた、山中を一人で歩いているうちに、だんだん頭の中が()めてきた。

(おキヌさんはそう言ってたけど、あのアスカが僕のことを好きかもしれないだなんて、やっぱり信じられないよな。そもそもアスカだって、あのときは遊びだって言ってたんだし……)

 あれこれ考えているうちに、シンジはミサトのマンションに到着した。

「ただいまー」

「シンジ、いつまで外をほっつき歩いてんのよ! もう、お腹がペコペコだわ!」

「今すぐ作るから、もうちょっと待ってて」

 アスカは、リビングで両足を広げて、デンと座っていた。
 その様子を見たシンジは、エプロンを着けながら、はあっと大きなため息をついた。




 翌日、シンジはネルフで予定が何も入っていなかったため、トウジやケンスケと一緒に下校しようとした。
 だが、教室を出ようとしたときに、ヒカリが三人を呼び止める。

「どこ行くのよ。あなたたち、掃除当番でしょ?」

「ええやん。掃除なんかせんでも、十分きれいや」

「そーそー」

「そうはいかないわよ」

 ヒカリはトウジとケンスケの肩を掴むと、教室の中に押し戻した。

「あ、碇君。あなただけ帰っていいわ」

「えっ、どういうこと?」

「その代わり、これ」

 ヒカリが学校で配っている数枚のプリントを、シンジに差し出した。

()まってるプリント、先生が綾波さんに届けてくれだって」

 レイは前回の使徒戦を挟んで、数日間ずっと学校を休んでいた。

「うん、わかった」




 シンジは学校を出ると、レイの住むマンションへと向かった。
 カーンカーンと解体工事の音が鳴り響く中、シンジはレイの部屋の前に立った。

(ここに来ると、どうしても思い出しちゃうんだよな。あのときのことを……)

 シンジは前に来たときに、シャワー室から出てきた裸のレイを、床に押し倒してしまったことを思い出していた。
 知らず知らずのうちに、シンジの(ほほ)が赤く染まってしまう。

(あのあと、さんざん横島さんにからかわれたっけ)

 幸い今日は、横島はこちらの世界に来ていなかった。
 何かが起こるのを期待するわけではないが、今日何があっても、自分で言わない限り横島に知られることは無いはずである。

(よし、行くか!)

 シンジは深呼吸をすると、ドアの脇にあるインターホンのボタンを押した。
 しかし、インターホンの鳴る音が、聞こえてこない。

(まだ壊れているのか)

 前に来たときも、インターホンは鳴らなかった。どうやら、壊れたまま放置されているようである。

「綾波、いる?」

 シンジはドアに向かって大きな声で呼びかけながら、ドアをドンドンと(たた)いた。

「なに?」

 しばらくすると、だぶだぶのワイシャツを着たレイが、中からドアを開いた。
 眠そうな目をしたまま、目をこすっているところを見ると、シンジがドアを(たた)くまで寝ていたらしい。

「ごめん、寝てた?」

昨夜(ゆうべ)、徹夜で実験してたから」

「そう、大変だったね」

 シンジはショルダーバッグの中から、プリントを取り出した。

「これ、()まっていた学校のプリント」

 レイは何も言わずに、それを受け取った。

「じゃあ、ゆっくり休みなよ。睡眠の邪魔してごめん」

 そのまま立ち去ろうとするシンジを、レイが玄関からじっと見つめていた。

「少し、上がっていけば?」

 レイから予想外の言葉をかけられたシンジは、その場で立ち止まった。
 シンジは一瞬躊躇(ちゅうちょ)したが、レイの誘いを断る理由は何もなかった。

「あ……うん、わかった」




 レイは、だぶだぶのワイシャツを着たままの姿で、台所に立っていた。
 ぼーっとしたまま立っている彼女の前で、ケトルが電熱器にかけられている。
 何も服を着ていなかった前回よりはましだが、ワイシャツの下から伸びている二本の白い足を見て、シンジはいささか目のやり場に困っていた。

(相変わらず、殺風景な部屋だ)

 シンジは部屋の中央で、椅子に座っていた。
 部屋の様子は、前回来たときとほとんど変わっていない。

(花か何かを、もってくるべきだったかな?)

 シンジは部屋を飾るのに、花束がいいか、それとも観葉植物がいいだろうかと考え込んでいた。

「綾波。綾波はどんな花が好き?」

 迷ったシンジは、レイに直接たずねることにした。

「……花は好きじゃない」

「えっ?」

「同じものがいっぱいあるのは、嫌いなの」

「ごめん。変なことを聞いちゃって」

 シンジは今度レイの家に来るとき、鉢物(はちもの)の観葉植物をもってこようと決めた。

 シュンシュン

 やがて、ケトルのお湯が沸騰(ふっとう)した。
 レイは電熱器のスイッチを切ると、電熱器の横に置いておいた紅茶の葉の缶を手に取った。

「紅茶って、どれくらい葉っぱを入れるのかな?」

「自分で飲んでなかったの?」

「紅茶って、あっても()れたことがないから……」

 レイは缶を開け、軽量スプーンで紅茶の葉を無造作にすくうと、シンジのいる方を振り向いた。

「これくらい?」

「そ、それじゃあ、多すぎると思うよ」

 紅茶の葉は、軽量スプーンに山盛りになっていた。

「そう……」

 レイは紅茶の葉を缶に戻した。
 しかし、紅茶の缶を置こうとしたときに、誤って右手がケトルに触れてしまう。

「だ、大丈夫!?」

「少し、ヤケドしただけだから……」

「ダメだよ、早く冷やさないと!」

 シンジは大慌てでレイに近づくと、レイの右手を(つか)んで蛇口の下にもっていく。
 そして蛇口を開くと、流水で火傷(やけど)をした箇所を流水で冷やした。

 ザーーッ

 水の流れる音が、部屋の中に響き渡る。
 しばらくしてシンジは、自分がレイの手を握っていたことに気づいた。
 急に相手を意識したシンジは、自然と(ほほ)が赤くなってしまう。
 シンジに手を握られていた、レイもまた同様であった。

「紅茶、僕が淹れるから、綾波はしばらくそうしていなよ」

「うん……ありがとう」

 片手を冷やしていたレイは、軽くうつむきながら、シンジに礼の言葉を述べた。




 シンジはガラス製のティーポットに、お湯を少し入れた。
 ティーポットのガラスを指で触り、ガラスが温まったことを確認すると、いったんお湯を捨てる。
 そして、ティースプーンで四杯の茶葉を入れてから、再度お湯を注いだ。
 ティーポットの中で紅茶の葉が、湯の熱対流により激しく浮き沈みしていた。

「この前の使徒が来る少し前に、うちでパーティーをしたんだ」

 シンジがレイに話しかけた。

「ミサトさんの昇進祝いなんだけど、加持さんとかトウジやケンスケもうちに来てさ。綾波も呼ぼうと思ったんだけど、携帯がつながらなくて──」

「いいの。そういうの、あまり好きじゃないから」

「そ、そうだよね」

 レイにやんわりと避けられたシンジは、少し(あせ)りを感じた。

「でも、始めてだったんだ。ああやって鍋を囲みながら、皆でワイワイと騒ぐのって。綾波は、鍋料理を食べたことある?」

「ないわ」

「今度、一緒に食べようよ。
 それで、今まではそういうのくだらないと思っていたけど、何かけっこう楽しくて。
 もし、またそういうことがあったら、綾波も来たらいいよ。そしたら──」

「碇君。何だか今日は、すごくお(しゃべ)りみたい」

「あ、ご、ごめん」

 シンジはしょげてしまうが、紅茶の葉が十分()れたことに気がつくと、レイが用意した二つのカップに紅茶を注いだ。

「綾波。父さんとは、いつもどんな話をしているの?」

「どうして?」

 レイは水道の水を止めると、シンジの方を振り向いた。

「もし、あのパーティに父さんがいたら、少しは話せたのかなと思って。呼んだって、来るわけないだろうけど」

「お父さんと話がしたいの?」

「……そうだね。話して何が変わるってわけでもないだろうけど、でも今の状態のまま、父さんを憎んだまま、エヴァのパイロットを続けるのはつらいんだ」

 レイは、うつむいていたシンジの横顔を、じっと見つめた。

「そう、言えばいいのに」

「え?」

「思ってる本当のこと、お父さんに言えばいいのよ」

 その言葉を聞いたシンジは、レイの方を振り向いた。

「そうしないと、何も始まらないわ」

「……」

 シンジは無言のまま、レイの顔をじっと見つめる。
 レイがその視線に気づくと、うっすらと(ほほ)を赤くした。

「紅茶、飲む?」

「ええ」

 シンジは紅茶の入ったカップを、レイに渡した。

「きれいな色……紅茶を淹れるの上手ね」

「実は、最近覚えたばかりなんだ」

 レイはカップに口をつけると、紅茶を一口飲んだ。
 シンジも、もう一つのカップを手に取って、紅茶を口にした。

「少し、苦かったね」

 もう少し茶葉の量を減らせばよかったと、シンジは思った。

「でも、温かいわ」

 レイはカップを両手で持ちながら、ほのかな微笑を浮かべていた。







 シンジはレイと一緒に紅茶を飲んでから、家に帰った。
 夕食を作り、ミサトとアスカと一緒に食事を済ませたあと、自分の部屋へと戻る。

(今日はビックリしたよな。まさか綾波が、あんなことを言うなんて)

 シンジは、昼間の出来事を思い出していた。

(思ってる本当のことか……それが言えたら、苦労しないよな)

 シンジは、ちらりとカレンダーに目を向けた。
 前々から言おうとは思っていたのだが、今まで踏ん切りがつかずに言えなかったことがあった。
 シンジは意を決すると、携帯を取り出して、ネルフの代表の番号に電話をかけた。

「あ、あの、碇シンジです。碇司令をお願いします」

「はい、しばらくお待ちください」

 応対した職員の女性は、シンジの名前を聞くと、すぐに電話を取り次いだ。

「シンジか。何だ」

 ゲンドウの声を聞いたシンジは、思わずビクッとしてしまう。

「あ、あの……」

(いそが)しいんだ。用があるなら、さっさと言え」

「あの、明日が何の日か覚えてる?」

 そのまま数秒間、沈黙が続いた。

「……さあな」

 ゲンドウの返事を聞いたシンジの表情に、落胆した色が浮かんだ。

「明日がどうかしたのか?」

「う……うん、何でもない」

「くだらんことで、電話をするな」

 ゲンドウは一方的に電話を切った。
 シンジは電源を切ることも忘れたまま、携帯の画面を見続ける。

「明日は母さんの命日だよ、父さん……」




 翌日、シンジはアスカと一緒に家を出た。
 しかし、学校に行く途中で、別の道へと進む。

「シンジ、どこに行くの?」

「ちょっと、今日は別に行くところがあるから。悪いけど、委員長に休むって言っといて」

「そういえば、加持さんに手紙渡しといてくれた?」

「加持さん、しばらく出張でいないんだってさ。戻ってきたら、ちゃんと渡すよ」

「忘れないでよ」

 シンジはアスカと別れると、環状線の駅へと向かった。

(シンジ、今日はどこに行くんだ?)

 今日は、横島が来ていた。

「墓参りです。今日は母さんの命日なので」

(そうか)

 横島は、初号機の中にユイがいることを知っていたが、そのことはまだシンジには話していなかった。
 ネルフやエヴァについてよくわからないことが多く、断片的な情報だけ伝えることを、横島は躊躇(ちゅうちょ)していた。




 シンジは環状線の別の駅で降りると、そこからさらにバスに乗り換えて、第三新東京市郊外の霊園へと向かった。
 そこは、セカンド・インパクトで亡くなった人たちが、眠っている場所であった。
 幾つもの丘が無数の石柱で埋め尽くされているその場所で、シンジは記憶を頼りにしながら母親の墓を探す。

(母さんがこんなところに眠っているなんて、やっぱりピンとこないな。顔も覚えていないのに)

 シンジがこの場所に来るのは三年ぶりであったが、探している場所はすぐに見つかった。
 なぜならシンジより一足早く、その場所にゲンドウが来ていたからである。

「父さん……」

「シンジか」

 ゲンドウは自分の妻であり、シンジの母親であるユイの墓に、花束を供えたところだった。

「なんか、信じられないな。父さんが墓参りだなんて……ひょっとして、毎年来ているの?」

「ああ」

 ゲンドウはユイの墓に視線を向けたまま、シンジに答えた。

「母さんて、どんな人? 写真とかないの?」

「写真はない」

「全部、捨てちゃったんだ」

「ああ」

 ゲンドウはユイの墓を、じっと見続けていた。

「この墓も、ただの飾りだ。遺体はここにはない。すべては心の中だ。今はそれでいい」

「今は……?」

 ゲンドウはしばらく沈黙した後、もう一度口を開いた。

「シンジ。もう、私を見るのはやめろ」

「え?」

 シンジは、きょとんとした顔つきをする。

「人は皆、自分ひとりの力で生き、自分ひとりの力で成長していくものだ。
 親を必要とするのは赤ん坊だけで、そしておまえは、もう赤ん坊ではないはずだ」

「……」

「自分の足で、地に立って歩け。私もそうしてきた」

 二人の間に、沈黙した空気が流れた。

「でも、僕は……」

「私とわかり合おうなどと、思うな。
 人はなぜか、お互いを理解しようと努力する。しかし覚えておけ。
 人と人とが完全に理解し合うことは、決してできぬ。人とは、そういう悲しい生き物だ」

 やがて、ネルフのVTOL機が、こちらに近づいてきた。
 ゲンドウは、迎えに来たVTOL機に向かって歩きはじめる。
 シンジは、去っていく父親の背中を、黙って見送ることしかできなかった。

「時間だ。先に帰る」

 ゲンドウはシンジに向かって振り返ると、帰ることを告げた。
 シンジは着陸したVTOL機が、ゲンドウを乗せてから離陸して去っていくまで、ずっとその場に立ち続けていた。




 レイはVTOL機の窓から、霊園にいるゲンドウとシンジの姿を眺めていた。
 機が離陸した後も、その視線はシンジのいる方角に向けられたままであった。

「どうだ、レイ」

 ゲンドウに呼ばれたレイは、視線を機内へと戻した。

「体の調子は?」

「あ……はい、問題ありません。明日は、赤木博士のところに行きます。明後日(あさって)は、学校へ」

「そうか。学校のほうはどうだ?」

「問題ありません」

「そうか。ならばいい」

 レイはチラリと、隣に座るゲンドウに視線を向けた。

(話すのは、仕事のことばかり……
 私のことを気づかってくれているようでも、本当は他の人のことを考えている。
 何も始まっていないのは、私のほうだわ……)




 シンジは、ゲンドウの乗ったVTOL機が雲の中に消えてから、母親の墓のある霊園を後にした。

(……なあ、シンジ)

 沈鬱(ちんうつ)な気分に(おちい)り、ずっと黙していたシンジに、横島が話しかけた。

(その、なんだ。少しは元気だせよ)

「……横島さん。横島さんのお父さんは、どんな人ですか?」

 シンジの声には、まったく覇気がなかった。

(俺のオヤジは商社マンでさ、女癖(おんなぐせ)が悪くて、お袋がしょちゅうキレてたな。
 仕事はまあできる方みたいで、俺が高校に入るときに両親そろって海外赴任して、それっきり日本に戻ってこないな)

(さび)しくなかったですか?」

(うーーん。俺の場合、親の束縛(そくばく)から解放されて、自由になったことの方が(うれ)しかったからな。
 まあ、シンジとは事情が違うから、参考にはならんかもしれんが)

「そうですか……」

 シンジは、そこでまた口をつぐんでしまう。

(シンジ)

「何ですか、横島さん?」

(たしかにさあ、人のことを完全に理解するのは難しいよ。
 でも大事なのは、理解しようと努力することじゃないかな。俺はそう思うけどな)

「横島さん。僕は父さんのことを、いつか理解できるようになれるんでしょうか?」

(今はわからない。ただ、時間が解決してくれることもあるからな)

「そうだといいんですが……」

 シンジはその日はずっと、口数が少なかった。



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