交差する二つの世界

作:湖畔のスナフキン

第七話 −奇跡の価値は− (03)




 加持は、荒地の中にある事務所の敷地に入った。
 人の気配は感じられないが、万が一に備え、物影を伝いながら建物に接近する。

 建物の入り口に近づいた加持は、懐から銃を取り出した。
 そして大きく深呼吸すると、ドアを開けて建物の中に踏み込んだ。

 キイ

 小さくきしんだ音をたてて、ドアが開いた。
 しかし踏み込んだ部屋のは荒れ果てており、もう何年も人が使った気配はなかった。

(やはり、ここもか……)

 加持はポケットからタバコを取り出して、火をつけた。
 荒れ果てた事務所の中で、しばらくの間、煙をたなびかせる。

 加持は一本吸い終わったあと、二本目を取り出そうとしたとき、ドアの外に人の気配があるのに気がついた。
 懐の銃に手をかけながらゆっくりとドアに近づき、ドアの隙間から外の様子を(のぞ)いた。

「ここには、私しかいないよ」

 ドアの外に、主婦らしき太った中年の女性が座っていた。
 その女性の姿を確認した加持は、(ふところ)の銃から指を離した。

「マルドゥック機関とつながる108の機関のうち、106がダミーだったよ」

「ここが107個目さ」

「この会社の登記簿だ」

 ドアの隙間から中年の女性が、折りたたんだ紙を差し込んだ。
 加持はその紙を受け取ると、広げて目を通す。
 登記簿には『碇ゲンドウ』『冬月コウゾウ』など、彼がよく知る名前が並んでいた。

「マルドゥック機関──エヴァンゲリオン操縦者選出のために設けられた、人類補完委員会直属の諮問(しもん)機関。
 組織の実体は、未だ不透明」

「貴様の仕事はネルフの内偵だ。マルドゥックに顔を出すのはまずいぞ」

「ま、何事も自分の目で確かめないと、気がすまない性質(たち)なのさ」

「余計なところに首を突っ込むのも、ほどほどにしておけよ」

 中年の女性はそう加持に告げると、この場から立ち去っていった。




『第六サーチ衛星より、目標の映像データの受信を確認! モニターにまわします!』

 発令所前面のメインスクリーンに、前衛芸術を実体化したような姿の使徒が映し出された。
 唇のような形をした胴体の中心に大きな目があり、そこからまっすぐ両側に伸びた腕の先には胴体の半分ほどの大きさの手のひらが付いており、そこから太い三本の指と小さな二本の指が伸びている。
 胴体の色は濃い肌色をしており、手のひらの中央には丸い目のような模様が描かれていた。

 使徒は、地球の衛星軌道に出現した。
 しばらく映像を見ていると、使徒の体の一部が分離して大気圏内に落下し、地上で爆発して大きなクレーターを残した。

「たいした破壊力ね。さすがATフィールド」

「落下のエネルギーと質量を利用しています。使徒そのものが、爆弾のようなものですね」

 オペレーターのマヤが、コンソールを操作して画面を切り替えた。

「とりあえず初弾は大はずれ。次に二時間後の第二試射がここ。
 後は確実に、誤差を修正しています」

「学習してるってことか……」

 ミサトがあごの下に指をつけながら、真剣そうな表情で着弾の映像を見ていた。

『新型N2航空爆雷による攻撃の効果も、確認できていません』

 画面が切り替わり、使徒に対してN2航空爆雷で攻撃を行った画像が表示された。
 しかし画像で確認する限り、使徒にダメージを与えた形跡は見られない。

『以後、使徒による電波攪乱(かくらん)のため、消息は不明です』

「……来るわね、たぶん」

「次はここに、本体ごとね」

 ミサトの意見に、リツコも同意した。

「南極の碇司令は?」

「使徒の放つ強力なジャミングのため、依然連絡不能です」

 ゲンドウと冬月ともに、南極に出かけていて本部に不在である。
 現在のネルフの責任者は、作戦部長のミサトであった。

「MAGIはどうなの?」

「全会一致で、本部からの撤退を推奨しているわ」

 ミサトの問いに、リツコが答えた。

「日本政府各省に通達。ネルフ権限における特別宣言D−17を発令。
 本部より半径五十キロ以内の全市民は、ただちに避難。
 松代(まつしろ)にはMAGIのバックアップを頼んで」

「ここを放棄するんですか!?」

 日向の質問に、ミサトが答えた。

「いいえ。ただ、みんなで危ない橋を渡ることはないわ」




 D−17の発令により、第三新東京市から市民が一斉に避難を開始する。
 ネルフの職員も、必要最低限の人数のみを残して、本部から退去した。

「勝ち目があると思ってるの? これで勝てたら、まさに奇跡(きせき)よ」

 発令所にいたリツコは、自分の隣に立っているミサトの方を振り向いた。

「数字だけで見たら正気の沙汰じゃないけど、数字に見えない何かに、私は賭けているのよ。
 それにリツコこそ、早く本部から離れた方がいいわ。
 技術部のトップだからって、ここに残る責任はないんだから」

「オリジナルのMAGIを残して、逃げることはできないわ。
 それに、本当に奇跡が起こるかもしれないしね」

「奇跡……ね。ずいぶん科学者らしくない発言じゃない」

 ミサトがリツコの方を振り向いた。

「言い方が悪かったわね。
 科学は仮説を立てて、それを検証することで進展していくものなのよ。
 私がここに残るのは、ある仮説の検証結果を、自分の目で確認するためってことよ」

「リツコ……あなた、何を知っているの?」

 ミサトがリツコを、疑うような目つきで見つめた。

「今は仮説の段階だから、何も言えないわ」

 リツコはそこで口を閉ざすと、タバコを吸うからといって、発令所から出て行った。




「落ちてくる使徒を、直接受け止めるですって!」

「そうよ。落下予測地点にエヴァを配置。ATフィールドで使徒を受け止めるの」

 ミサトから、今回の作戦の概要を聞いたアスカが、驚きの声をあげた。

「正確な位置の測定はできないけど、ロスト直前までのデータから、MAGIが落下予想地点を割り出したわ」

 ミサトがスクリーンに、落下予想地域を表示した地図を表示した。
 その領域は第三新東京市を、ほぼすっぽりと飲み込む程の広さがあった。

「こ、こんなに広いの!?」

「そう。だからあなたたちのエヴァを、この三ヶ所に配置したの」

 その地図には、落下予想地域の中心を基点として大きな円が描かれており、その円弧を三分割する地点にエヴァが配置されていた。

「あとは目標を確認できしだい、あなたたちが全力で走って、ATフィールド最大で使徒を受け止めるのよ」

「あのねぇ、簡単に言うけど……」

「もし失敗したら、使徒によってネルフ本部ごと、根こそぎエグられる結果となるわ」

 ミサトの言葉に、アスカはごくりとつばを飲んだ。

「つまり、何とかしてみせろってことね」

「すまないけど、他に方法がないの。この作戦には。
 一応規則だと、遺書を書くことになっているけど、どうする?」

「別にいいわ。そんなつもりないもの」

 遺書を残すというミサトの勧めを、アスカは断る。

「私もいい。必要ないもの」

「僕もいいです」

 アスカに続き、レイとシンジもその勧めを断った。

「すまないわね。この作戦が終わったら、みんなにステーキをおごるから」

「ミサトにしては、大奮発するじゃない。
 ファースト、あなたこの前の宴会に来なかったんだから、今度は一緒に来るのよ」

 アスカがレイに、声をかけた。

「……いい、私行かない」

「アスカ、綾波は肉が嫌いなんだよ」

 シンジが、横から会話に割り込んだ。

「さっすが、いとしのファーストのことは、何でも知ってるのね」

「な、何言ってるんだよ……」

「はいはい、それくらいにしなさい。どこに行くかは、作戦が終わってから考えましょう。
 それじゃ、プラグスーツに着替えて、ケージに移動してちょうだい」

 ミサトはパンパンと手を(たた)いてその場をまとめると、シンジたちに出撃準備の指示を出した。




 エヴァに搭乗したシンジたちは、地上に射出されると、作戦で決めたそれぞれの配置地点に移動した。
 そして、陸上のクラウチングスタートの姿勢をとって、その場で待機する。
 なお零号機は今回の使徒戦の前に、実験用から戦闘用へと、装甲も含めて大幅に装備が変更されていた。

「アスカ、レイ、シンジ君。いつでもスタートできるように準備して」

「わかったわ」

「はい」

「……」

 アスカとレイはすぐに返事をかえしたが、シンジは黙ったまま返事をしなかった。

「シンジ君!?」

「はい、わかっています」

 シンジは渋々といった表情で、ミサトに返答した。

「なーーんか心配よね。ここ二・三日、元気ないのよね。彼」

「あら? 元気いっぱいのシンジ君なんて、かえって気持ち悪いじゃない」

 端末のキーボードをカタカタと叩きながら、リツコが口をはさんできた。

「まるで、意地悪ばあさんね」

「……ばあさんは余計よ」

 ミサトの後ろに座っていたリツコが、とても渋い顔をした。







(おい、シンジ。本当に大丈夫か?)

(はい、何とか……)

 今日は、横島が来ていた。
 とても使徒と戦えるような気分ではなかったが、横島に負担をかけたくないと思っていたシンジは、そう返事をした。

(このまえ墓参りに行ってから、ずっとこんな調子だな。
 父親との対話が、シンジにとってこんなにクリティカルだったとはな……)

 母親の墓からゲンドウが立ち去ったあと、シンジは物思いにふけってばかりいた。
 シンジはあまり話しをしなかったが、シンジの心に愛憎入り混じった複雑な感情が渦巻いていることは、同じ体の中にいる横島にはよくわかっていた。

(父さん……)

 シンジは、再び物思いに沈み込んだ。




 墓参りに行ったときのゲンドウの言葉が、シンジの心の中で何度も繰り返されていた。


 ──シンジ。もう、私を見るのはやめろ……

 ──私とわかり合おうなどと、思うな……

 ──人と人とが完全に理解し合うことは、決してできぬ……

 ──人とは、そういう悲しい生き物だ……


 ……
 ……
 ……


 ──ほら、あの子よ

 二人の婦人が、ランドセルを背負って歩く小学生のシンジを指差した。

 ──かわいそうよねえ。ひどい父親をもって。
 ──父親の実験だか何かのせいで、母親が犠牲になったっていうじゃない
 ──恐ろしいわよねえ。自分の奥さんを、実験台にするなんて

 『ヤメロ』

 ──あの子のことも人に預けっぱなしで、一度も会いに来ないんですって
 ──まあ、かわいそうに

 『ヤメロ。アンタタチニ、ソンナコトヲ言ウ権利ハナイ』

 ──かわいそうに
 ──かわいそうに……
 ──かわいそうに…………

 『アンタタチニ、父サンノ何ガ、ワカルッテイウンダ……』




 衛星軌道上にいた使徒の本体が、落下を始めた。

『目標を最大望遠で確認。距離、およそ二万五千!』

「おいでなすったわね! エヴァ全機スタート!」

 この時を待っていたとばかりに、ミサトは目を爛々(らんらん)と輝かせた。

「MAGIによる落下予想地点、エリアB−2!
 肉眼でとらえるまで、とりあえず走って! その先はあなたたちに任せるわ!
 外部電源パージ!」

 バシュッという音とともに、三機のエヴァに装着されていた電源のソケットが外された。
 そして電源が外されると同時に、零号機と弐号機が一斉にスタートする。

「シンジ君!」

 物思いにふけっていたシンジは、ミサトの指示を聞き逃していた。

「なぜスタートしないの!?」

 ハッと我に返ったシンジは、慌てて操縦桿(そうじゅうかん)を握ると、初号機をスタートさせた。
 轟音と衝撃を残しながら、第三新東京市の大通りを初号機が一気に加速していく。

「まずいわ! 初号機が一番近い場所にいたのに……」

 わずか数秒の遅れであったが、今回はそれが致命傷となりかねなかった。

『距離、あと九千!』

「初号機は、間に合いそう?」

「ダメです! 使徒の地上到達の方が0.7秒早い! 間に合いません!」

 余裕を失ったのか、マヤが悲鳴をあげるような声で、ミサトに報告した。

「……っ!」

 ミサトは唇を強くかみ締めながら、メインスクリーンに映る初号機を(にら)んだ。
 あとは、ただ奇跡が起こることを祈ることしか──

(シンジ、代われっ!)

 通信機から聞こえてくる声で、発令所の異常を察した横島が、強制的にシンジと入れ代わった。
 緊急事態に備えて、あらかじめ用意していた文珠でシンクロすると、さらに三つの文珠を生成する。

 …
 …
 …
 …

 そして、奇跡が起こった。

『初号機、レーダー反応から消えました!』




 初号機を取り巻く環境が一変した。
 スピーカーから聞こえてきた通信の声や、周囲の風切り音が途絶えた。
 周囲のすべてが静止した中を、初号機のみが黙々と進んでいく。

(横島さん、これは……)

(超加速状態に入ったんだ。俺たち以外の時間の流れが、極端に遅くなっているのさ)

 突然の出来事に、シンジは目を丸くするしかなかった。

(今、どれくらいの速さなんですか?)

(毎秒800メートルのライフルの弾が、ノロノロと進むくらい時間の流れが遅くなってるんだ。
 そこにエヴァの移動速度が加算されるから、どれくらいの速さか見当もつかないよ)

 実際、超加速状態に入ると、その動きを追うことはほとんど不可能である。
 常人の目から見れば、瞬間移動しているのとほとんど変わらない。

 やがて初号機が、落下予想地点に到達した。
 横島は上空を眺めながら、小高い丘の上に移動する。

(もうすぐ、超加速状態が解ける。シンジと交代するから、あとは頼んだぞ)

(はいっ!)




『初号機、レーダー反応ありました。落下予想地点にいます!』

「なんですって!」

 初号機の姿は、発令所のモニターでも確認された。

『距離、あと二千!』

 シンジは少しだけ場所を移動すると、そこでATフィールドを最大出力で展開する。
 上から降ってくる使徒の胴体が、初号機のATフィールドと激突した。
 初号機は使徒の目玉の直下で、両手と両足を踏ん張って、懸命に使徒を支える。

「う、受け止めた……」

 それは、ものすごい重圧であった。
 膨大(ぼうだい)な負荷がかかったため、両腕の装甲板がきしみ、両足は地面にググッと沈み込む。

「くっ……」

 初号機の重圧をフィードバックで感じたシンジが、うめき声をあげた。

「アスカ、レイ、急いで!」

 ようやく、零号機と弐号機が到着した。

「弐号機、フィールド全開!」

「やってるわよ!」

 落下地点にたどり着いた零号機と弐号機が、初号機と一緒に使徒を支えた。
 初号機にかかっていた負荷が、一気に軽くなる。

「綾波、今だっ!」

 零号機がプログナイフを取り出し、ATフィールドを切り裂いた。

「こんのおっ、目玉お化け!」

 続いて弐号機が、プログナイフを使徒の目玉に突き刺す。

 バタン!

 使徒のATフィールドが消滅した。
 力を失った使徒は、三体のエヴァを飲み込むようにして、丘を覆いつくすようにして地面に崩れおちる。
 次の瞬間、激しい爆発が、その丘を中心とした第三新東京市の一角を包み込んだ。




「やったわね」

「ええ……」

 使徒が爆発したあと、発令所の緊張が緩み、安堵感が広がった。
 エヴァの無事がまだ確認できていないが、ATフィールドがあるから問題ないであろう。

「エヴァが消えた直後、落下地点に現れたわね。瞬間移動したのかしら?」

「データを分析してみないと、確かなことは言えないわ」

「リツコ。あなた、こうなることをわかっていたの?」

「初号機が消えることまでは、わからなかったわ。ただ、何かが起こるだろうとは思ってた」

「初号機だけ、明らかに他のエヴァとは違うわね。それは、いったい何なのかしら?」

 ミサトが、リツコににじり寄った。

「あなたに渡した資料がすべてよ」

「それはウソね」

「本当よ」

「じゃあ、なぜ初号機にだけ、原因不明の現象が何度も起きるのよ!?」

「初号機のイレギュラーについては、調査を継続しているわ」

「いつ、調査結果が出てくるのかしらね」

 ミサトの皮肉の混じった質問に、リツコは口を閉ざして答えなかった。







 空母のデッキから冬月は、随所に塩の柱が突き出た紅い海を(なが)めていた。

「いかなる生命の存在も許さない死の世界……南極か。いや、地獄と言うべきかな」

「だが我々人類は、ここに立っている。生物として生きたままだ」

 冬月の言葉に、ゲンドウが答えた。

「科学の力で守られているからな」

「科学は人の力だよ」

「だが碇。その傲慢(ごうまん)さが十五年前の悲劇、セカンド・インパクトを引き起こしたのだ。
 そして結果、この有様だ。与えられた罰にしては大き過ぎる」

「だが原罪の汚れなき、浄化された世界だ」

 そのときデッキの中に、ブザーの音が響いた。

『ネルフ本部より入電です。3日9時、ネルフ上空に使徒出現。
 しかし同日15時、エヴァ三機によりこれを殲滅(せんめつ)したとのことです』

「これで九つか」

「ああ、残るはあと七つ」

 ゲンドウは、デッキから空母の甲板を見下ろした。

「だが、この“槍”を手に入れたことにより、我々人類は“約束の時”まで、少しばかりの時間の猶予(ゆうよ)を手に入れたことになる」

 空母の甲板の上には、長くて太い棒状の物体が置かれていた。
 甲板の端から端まで伸びているその棒は、ワイヤーでしっかりと甲板に(くく)り付けられていた。




「みんな、ご苦労さま」

 使徒殲滅が確認され、ネルフ本部に帰還したシンジたちを、ミサトが笑顔で迎えた。
 シンジはスタートダッシュが遅れた件について、ミサトに責められるのではないかとビクビクしていたが、少なくともこの場で(しか)る気はないようだった。

「ミサト。たしか出撃する前に、今日の戦いに勝ったら何かおごるって言ってたよね?」

「そ、そうね」

「どこにしようかな〜〜」

 アスカが、どこからか『第三新東京市グルメマップ』というタイトルの情報誌を取り出すと、パラパラとめくった。

「レイが肉ダメって言うし、料理が限られちゃうわね」

 いかにも高級そうな店ばかりが紹介されているグルメ雑誌を見て、ミサトは(ひたい)に冷や汗を浮かばせる。

「葛城三佐」

 そのとき、レイが手を上げた。

「希望があります」

「な、何かしら。レイ?」

「鍋料理を食べてみたいです」




 使徒が殲滅され、第三新東京市の避難指示は解除されていた。
 しかしその第三新東京市で、すぐに営業を再開したのはコンビニくらいのものである。
 料理店を含む多くの店は、シャッターを下ろしたままであった。
 もっとも夜になれば、屋台の店くらいは営業をするかもしれないが。

(結局、どの店に行くのかも決まらなかったなー)

 横島は、しきりに残念がっていた。
 外で鍋を食べるのはずいぶん久しぶりだったので、横島は食べるときに、シンジと代わってもらおうと考えていたのである。

「仕方ないですよ。それにミサトさんとアスカが、大ゲンカ始めちゃいましたし」

 レイの希望を聞いたミサトは、内心ほくそえんでいた。
 出撃前にはステーキをおごると言ったものの、給料日前のミサトの財布は、その負担に耐え切れるほど余裕がなかった。
 しかし鍋であれば、具の選択しだいで、かなり出費を抑えることができる。
 レイが肉嫌いであったことも、ミサトに有利な条件となっていた。

(まあ、アスカの気持ちも、わからなくはないけど)

 レイが肉を食べられないため、ミサトは海鮮がメインの鍋料理の名前を幾つかあげた。
 ところが、アスカが持っていたグルメ雑誌で調べたところ、たちどころにその鍋料理の値段が判明したのである。
 安く済まそうとするミサトの魂胆に対して、アスカが強く反発したのであった。

「何か、いい案はないですか?
 それから、綾波は肉が嫌いなこと以外に、(さわ)がしいのも苦手みたいなんです」

(ふーん。まあ、そうなんだろうなあ)

 シンジは、この前レイの部屋に行ったことを横島には話していなかったが、レイの性格を多少なりとも理解していた横島は、特に疑問を挟まなかった。

(そうだ。これならどうだろう)

 横島の発案に、シンジは全面的に賛同した。




 使徒戦が終わった次の日、ミサトとシンジとレイとアスカは、揃って和食の店に出かけた。
 予約していた座敷に通された四人は、早速、鍋を食べ始めたのだが……

「……」

「……」

「……」

「……」

 いつも静かなレイはともかく、何かと騒がしいミサトやアスカも、黙々と箸を動かしていた。

「シンジー。これ取れないよー」

「ちょっと待って、アスカ」

 シンジがアスカの持っていたものに、はさみで切り込みを入れた。

「どう、これで?」

「ダンケ! だいぶ食べやすくなったわ」

 その様子を見たレイも、シンジに手にもっていたものを渡した。

「碇君、私も……」

 シンジはそれに切り込みを入れ、さらに両手で二つに折った。

(すみ)の方は箸だと取りにくいから、このスプーンですくって食べるといいよ」

「ありがとう、碇君」

 シンジはレイに、細長くて先端が二つに割れている独特の形状をしたスプーンを渡した。

「シンちゃ〜ん、お姉さんにもやってくれないかな?」

「ミサトさんは、大人でしょ?」

「これくらい、いいじゃない。シンちゃんのケチンボ」

 シンジ達は、カニ鍋を食べていたのであった。
 シンジのカニ鍋の提案にミサトは渋ったが、シンジに加えてアスカも賛成したので、とうとう押し切られたのである。

「ミサト。いい歳して、何シンジに甘えてんのよ」

「アスカだって、シンちゃんに色々世話焼かせているじゃないの」

「私はカニの食べ方を知らないから、シンジに聞いてるだけだもん」

 ミサトとアスカの間で、ときどき口ゲンカがあるものの、全体として静かな食事であった。
 『どんなにうるさい女でも、カニを食べている間だけは静かになる』という横島の意見が、ほぼ的中していた。




「ごちそうさま」

 カニ鍋の他に、カニの小鉢(こばち)やカニ肉ののったサラダ、そして最後にカニ雑炊(ぞうすい)とカニづくしのコース料理だった。
 アスカはもちろんだったが、レイも満足そうな表情をしていた。

(横島さん、残念だっただろうな)

 あいにく、この日は横島は来ていなかった。
 実体での移動が自由にできても、精神のみの移動はまったく制御できずにいた。
 どういう仕組みで精神だけ移動するのか、横島もよくわかっていなかった。

 店の支払いは、ミサトが済ませた。
 財政難に直面したミサトは、親友のリツコに泣きつき何とか危機を脱したが、次の給料日まで晩酌のえびちゅを一本減らさざるをえなくなった。



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