交差する二つの世界

作:湖畔のスナフキン

第十五話 −最後のシ者− (04)




装甲隔壁(そうこうかくへき)は、エヴァ弐号機により突破されています』

『目標は、第17隔壁を突破!』

 オペレーターの青葉と日向は、非常に真剣な口調で状況を報告していた。
 過去、本部内に侵入した第11使徒と異なり、渚カヲルが操る弐号機は、明らかにターミナル・ドグマを目指している。
 そこに何があるのかを知っている人物は極めて少数だが、侵入されたら全てが終わりだということは、発令所職員の全てが知っていた。

「シンジ君! 目標の最下層侵入は絶対に阻止(そし)して! どんな方法を使ってもよ!」

「目標って……弐号機がそうなんですか!?」

「いいえ。本当に阻止しなければならないのは、弐号機を(あやつ)っている方よ。
 渚カヲルという、人の形をした使徒を殲滅(せんめつ)するの。いい、聞こえたわね!」

 ミサトから、カヲルが使徒だということを聞いたシンジは、思わずごくりとつばを飲み込んだ。
 横島から聞いた話は、やはり事実だったのである。

「……わかりました。行きます」

 シンジは覚悟(かくご)を固めると、初号機を進めてメインシャフトを降下するワイヤに(つか)まった。




『エヴァ初号機、ルート2を降下。目標を追撃中!』

 ワイヤーに掴まりながら落下する初号機が、みるみるうちに弐号機との差を(ちぢ)めていった。

『第9層に到達。目標と接触します!』

 初号機に乗るシンジの視界に、弐号機とカヲルの姿が見えた。

「止めるんだ、カヲル君!」

「遅いよ。来ないかと思った」

 初号機を見上げながら、カヲルがつぶやいた。

「どうして! どうして、こんな真似を!」

 ポケットに手を入れながら平然と落下するカヲルを、シンジは初号機の手で捕えようとする。
 だが、並んで落下していた弐号機の手が伸び、初号機と両手でがっぷりと組み合った。

「どうせ戦うことになるのに、どうして僕たちに近づいたんだ!」

 初号機は片手を離すと、肩のウェポンラックからプログナイフを取り出して弐号機に斬りつけた。
 同時に弐号機も、ウェポンラックからプログナイフを出し、初号機のプログナイフを受け止める。

「くっ! 誰も乗っていないはずなのに!」

「エヴァは、僕と同じ体でできている。僕もエヴァも、同じアダムから生まれたものだからね。
 (たましい)さえなければ、同化できるんだよ。
 今、この弐号機の魂は、自ら閉じこもっているから」

 プログナイフの(やいば)と刃が激しくぶつかり合ったが、カッターナイフのように(するど)くはあっても肉厚が薄い弐号機のプログナイフの刃が、根元から1/3ほどを残して折れてしまった。

「じゃあ、止めてよ! 僕は、君と戦いたくないんだ!」

 シンジのその言葉に、カヲルは冷笑をもって答えた。
 シンジはカヲルを(おどか)そうとして、プログナイフをカヲルに突きつける。
 だが、プログナイフの先端がカヲルに届く前に、赤い六角形の(かべ)が現れてプログナイフの接近を(はば)んだ。

「ATフィールド!」

「君だって、持っているくせに」

 シンジは、カヲルの言うことが理解できず、一瞬言葉に詰まった。

「何人にも侵されない聖なる領域。心の光。
 君にもわかっているはずだ。ATフィールドとは、誰もがもってる心の壁だということを」

「そんなの、わからないよっ!」

 シンジは逆ギレしたかのように、強く言い返す。

「ATフィールドを持っているのは、使徒とエヴァだけだ!」

 弐号機がプログナイフを突き出し、残った刃で初号機の左胸を突いた。

(ごめん、アスカ!)

 弐号機のプログナイフが、初号機の装甲を突き破った。
 痛みを感じたシンジは、心の中でアスカに(あやま)ると、初号機のプログナイフを弐号機の首に突き刺した。




『エヴァ両機、最下層に到達。目標ターミナルドグマ到達まで、あと20!』

 発令所のメインスクリーンに、互いにプログナイフを突き刺したまま落下していく初号機と弐号機、そして一緒にメインシャフトを降下する渚カヲルの姿が映し出されていた。

「日向君」

 ミサトはオペレーター席に近づくと、作戦部オペレーターの日向に話しかけた。

「はい」

「初号機の信号が消えて、もう一度変化があった時には……」

「わかってます。その時は、ここを自爆させるんですね。
 サードインパクトを起こされるよりは、マシですから」

「済まないわね」

「いいですよ。あなたと一緒なら」

 そのとき、地の底の方から伝わったズズンという大きな地響(じひび)きが、発令所を大きく()さぶった。

「何が起こったの!?」

「これまでにない強力なATフィールドです! 光波、電磁波、粒子、すべて遮断(しゃだん)されています!」

「何もモニターできません!」

「目標およびエヴァ初号機、共にロスト! パイロットとの連絡も取れません」

 オペレーターの日向、青葉、マヤが次々に報告を上げた。

「まさに、結界ね」

 緊張した表情のミサトが、小さな声でつぶやいた。




 初号機と弐号機、そして渚カヲルがついにメインシャフトの底まで到達した。
 そこにはドーム上の空間が広がっており、下にはLCLが()まって湖のようになっている。
 初号機と弐号機がLCLに着水し、大きな水柱が上がった。

「カヲル君、待つんだ!」

 着水の衝撃(しょうげき)から立ち直ったシンジが、初号機の手を伸ばしてカヲルを捕まえようとした。
 だが、弐号機が初号機の足首を掴んで、初号機をその場に押し止めてしまう。
 その隙にカヲルは、空中に浮いたままドーム上の空間の一角にある大きな扉の前に移動すると、ドアの制御装置を一瞥(いちべつ)した。
 すると、カシャンという音とともに、ロックされていたドアが解除された。

『最終安全装置解除! ヘヴンズドアが開いていきます!』

 カヲルの目の前で、大きな扉が左右に別れてゆっくりと開いた。
 カヲルは扉の内側に入ると、目の前にある十字架に(はりつけ)にされた白い巨人と向き合った。

「やはり、これはアダムではない。黒き月……リリス」




「ついにたどり着いてしまったのね、使徒が」

 観測手段のほとんどが断ち切られたネルフに、成す術はあと一つしか残されていなかった。
 ミサトは祈るような気持ちで、真っ暗になったメインスクリーンを見つめる。

「シンジ……」

「碇君……」

 発令所で待機していたアスカとレイも、真剣な眼差(まなざ)しで初号機の戦いを見ていた。
 だが、発令所のメインスクリーンの表示が消えると、レイは(きびす)を返して発令所を出ようとした。

「ちょっと、レイ! いったいどこへ行くのよ!?」

「碇君のところ」

「私たちが行ける場所じゃないでしょ! それに今から行っても、もう間に合わないわ」

 実際には、レイのIDカードであれば、ターミナルドグマに行くことができた。
 しかし、そのことを、この場で口外するわけにはいかなかった。

「……わかったわ」

 レイはやむなく、その場で足を止めた。




(シンジ、代われ!)

 カヲルがヘヴンズドアの中に入った直後、横島がシンジに呼びかけた。

「わかりました!」

 横島はシンジと入れ替わると、すぐさま文珠を使って初号機にシンクロした。
 さらに『停』『止』の文珠を使って、足下にしがみつく弐号機を強制的に停止させる。
 さらに文珠を三つ作って、『超』『加』『速』の文字を込めた。
 文珠の大盤振る舞いとなったが、なりふり構っている余裕は既になかった。




「――そうか。君は最初からここにいたんだね。
 このジオフロントは、君が最初に来た時にできたってわけか。
 そして、ずっと待っていた。継承者がここまで来るのを」

 そのとき、神速の速さで、初号機がリリスのいる空間に飛び込んできた。
 初号機はリリスとカヲルの間に割って入ると、カヲルの行く手を(さえぎ)った。

(シンジ。いったん戻すぞ)

 横島とシンジが、再び入れ替わった。

「カヲル君。これ以上少しでも進んだら、僕は絶対に容赦(ようしゃ)しない!」

 エントリープラグの中でシンジは、初号機の目の前に浮かんでいるカヲルを強く(にら)みつけた。







 突然、目の前に現れた初号機を見て、カヲルは思わずヒュウと口笛を吹いた。

「間近で見ると、ものすごい迫力だね。初号機のイレギュラーは」

「カヲル君。これ以上絶対、君を先には進ませない」

 カヲルはポケットに片手を入れたまま、微笑を浮かべた。

「たとえ僕が使徒でも、人の形をしたものに手をつけられるの?
 それに、僕がそこにあるリリスに触れれば、サード・インパクトが起こるらしいよ。
 接触した生命を含め、すべての種が一瞬で滅びる。
 もちろん、君たち人類(リリン)もね」

「まだ間に合う。今引き返せば、戦わなくて済むんだ!」

「戦わなくて済むか……その考えは、ムシがよすぎると思うよ」

 カヲルは、口をつぐんだまま初号機を見つめていたが、突然フッと笑った。

「そうだ。もう一つ、いいことを教えてあげるよ。
 サード・インパクトが起こったとしても、人はただ滅びるんじゃない。
 新しい形で生まれ変わるんだ。一つに結合して、単体の生命としてね。
 そうすれば、君の望んでいるとおりの世界が訪れる。
 ATフィールドも必要ない。
 戦いや争い、人を失う苦しみや悲しみ。君はその全てから、解放されるんだ。
 それでも君は、僕を止めるっていうの?」

 シンジは、カヲルが話したことが理解できなかった。
 理解するにしては、あまりにも突拍子もない内容であるし、また理解できたとしても、裏切られたという想いからくる反発の感情の方が強く、カヲルの言うことを素直に聞ける状態ではなかった。

「……サード・インパクトは、起こさせない」

「これは、僕の運命だ。僕は最初から、この時のために生まれ、仕組まれた子供だから」

「やめろっ!」

 そう言うと、カヲルはフワッと上方へ移動した。
 シンジはカヲルをリリスに近づけさせまいと、初号機のプログナイフを投げ捨てて、右手でカヲルを捕まえようとする。

「でも、僕にも意思がある」

 初号機の手がカヲルに(せま)ったが、カヲルは逃げようとはしなかった。
 カヲルの毅然(きぜん)とした姿を見たシンジは、初号機の手をカヲルの間近で止めた。

「自らの意思で、運命に逆らうこともできる」

 シンジはカヲルの気が変わったのかと思い、じっとカヲルを見つめた。

勘違(かんちが)いするなよ。君のために言ってるんじゃない。
 それに、このまま引き返したりしたら、老人たちが(だま)ってないだろう」

「老人?」

 カヲルの話した言葉の意味を理解できず、シンジは反射的に聞き返した。

(ゼーレの幹部たちのことだ)

 横島がシンジに、その言葉の意味を教えた。

「あいつら、速攻で僕を消すだろうな。
 もともと僕の命は、あいつらが(にぎ)ってるのも同然だからね。
 まあ、サード・インパクトを起こそうと起こすまいと、どっちにしろ僕という個体は消えてなく
 なるから、本当はサード・インパクトなんて、僕にとってはどうでもいいんだよ」

 カヲルは初号機から視線を外すと、顔をうつむかせる。

「……僕に残された絶対的な自由は、自分の意思で自らの死の形を選べるってことだけなんだ」

 そう述べたときのカヲルの表情は、かなり辛そうなようにシンジの目には映った。

「だから僕は、僕を君の手で消してもらいたい」

 その言葉を聞いたシンジは、一瞬返事に詰まってしまう。

「な、何を言って……」

「聞こえなかった? 君に消してもらいたいと言ったんだ。
 君が少しでも僕のことを想ってくれるなら、君がその手で消してくれ」

「そ、そんなこと言われて、できるわけないだろ!」

 逆ギレしたかのように、シンジが(さけ)んだ。

「最後の願いなんだよ。君が僕のことを少しでも好きなら、僕の願いを(かな)えてくれ」




 先ほどまでの喧騒(けんそう)(うそ)のように、ターミナル・ドグマの中は静まりかえっていた。
 初号機が発するわずかな機械音だけが、その広い空洞に(ひび)いている。

(ど、どうしましょう、横島さん!)

 切羽詰(せっぱつま)ったシンジは、声を出さずに横島に話しかけた。

(こんな展開になるとは、予想外だったな)

 まさか土壇場(どたんば)で自殺願望を述べてくるなどとは、経験豊富な横島にも想定外の事態だった。
 かつてのアシュタロスと似てなくもないが、最後まで堂々と戦ったアシュタロスと違い、渚カヲルは無抵抗のまま殺してくれと言っている。
 サード・インパクトの恐れがないのであれば、シンジの手を(けが)さない方がいいだろうと横島は考えた。

(シンジ、もう少し話を続けてみよう)

 横島の助言に従い、シンジはカヲルに話しかけた。

「そんなふうに言われても、抵抗もしない相手を殺すなんて、僕にはできない」

「なんで? 最後の願いなのに。
 できないのは、自分が罪悪感に苛まれるのが怖いからなんだろう?
 自分のことだけ考えて、僕のことはこれっぽっちも考えてくれない。
 そんなに(きら)いなんだ、僕のこと」

「嫌いじゃない! 嫌いだなんて、一言もいっていない」

「じゃあ、君の本心を見せてみろ。
 次に君が取る行動が、僕に対する本当の気持ちの(あかし)だ」

 シンジは、言葉に詰まってしまった。
 次の行動をどうするか、シンジが躊躇(ちゅうちょ)していると、横島がシンジに話しかけてきた。

(シンジ、後は俺がやってみる)

(お願いします、横島さん)

 横島はシンジと入れ替わると、再度カヲルへの説得を(こころ)みた。

「なあ、カヲル。もうそれしか、道はないのか?」

 突然シンジの口調が変わったことにカヲルは(おどろ)いたが、何かに思い当たったのかニヤリと笑った。

「フフッ、君がもう一人のシンジ君か。
 老人たちは信じちゃいなかったけど、(うわさ)というのも案外バカにできないものだね」

「まあ、俺のことは後から説明するとして、本当に後戻りはできないのか?」

「無理だね。役目を放棄(ほうき)すれば、僕は老人たちによって消される。(みじ)めな死に方は、ごめんだよ」

「ネルフが、総力をあげて守ってもか?」

「ネルフの力じゃ、僕を生かすことはできない。僕にはもう、この世界に居場所はないんだ」

「そうか。わかった」

 初号機の手に霊力が集まり、白く光り始めた。
 横島はその白く光った手で、カヲルの体を握り締める。

「いったん、お別れだ。渚カヲル」

 カヲルは初号機の手のひらの中で、満面の笑みを浮かべた。
 それは望みがかなう喜びの表情であることに、シンジは気がついた。

「じゃあな」

 初号機の手のひらが、強く発光する。
 光が収まってから初号機が手を開くと、そこにはもう渚カヲルの姿はなかった。







 渚カヲルの姿が消えると同時に、結界にも例えられた強固な彼のATフィールドがすべて消失した。

『モニター復活しました!』

『初号機パイロットの生命反応に異常なし』

『弐号機からの信号ありません』

『エヴァ初号機、セントラルドグマを上昇します』

 渚カヲルのATフィールドによって(さえぎ)られていた計測器が復活し、そこから流れてきた情報をオペレーターたちが次々に読み上げる。

「……倒したってことですよね、17番目の使徒を」

 マヤが、ぽつりとつぶやいた。
 いつもであれば、使徒殲滅(せんめつ)の報告と同時に歓声(かんせい)が沸き上がるのに、今日に限っては誰一人として喜びの声が出てこなかった。
 司令席にいたゲンドウと冬月も含めて、発令所は重苦しい雰囲気のままであった。




 ミサトは発令所で事後処理を済ませると、本部施設内のパイロット居住区に向かった。
 途中でアスカを見かけたので声をかけると、

「シンジなら、自分の部屋に戻ったわよ。
 話しかけても返事をしなかったし、相当落ち込んでるみたい。
 まあ、無理もないけどね。
 アタシだって、同じチルドレンが使徒だったなんて、けっこうショックだったもの」

 と答えたので、ミサトはシンジの部屋へと向かった。
 ミサトはシンジの部屋の入り口に立ってから、インターフォンのボタンを押した。

「シンジ君、あたしだけど。入るわよ」

 ミサトが部屋に入ると、シンジは頭から布団をかぶって、ベッドに横になっていた。

「シンジ君、大丈夫?」

「ええ、なんとか」

 布団にもぐったまま、シンジが答えた。

「そろそろ、食事の時間よ。よかったら、一緒に食堂に行かない?」

「食欲ないんです。それに眠たくて」

 その返事を聞いたミサトは、小さくため息をついた。

「……彼のこと、後悔(こうかい)しているの?」

「いいえ。ただ、今は何も考えたくない。疲れてるんです」

「すまなかったわ。もっと早くに、彼が使徒だとわかっていれば……」

 だがシンジは、それ以上ミサトの話に答えなかった。

「わかったわ。それじゃ、ゆっくり休んでね」

 シンジは布団にもぐったままじっとしていたが、ミサトが部屋を出て数分経ってから、パチリと目をあけた。

(もう大丈夫だ。近くに人の気配はない)

「はい」

 シンジは布団を跳ね除けて、上半身を起こした。

「うまくいったんでしょうか?」

(まあ、わざわざ様子を見にきたくらいだからな。もう二・三日は、落ち込んだ振りを続けよう)

「でも僕、あまり演技とか自信がないです」

(心配するな。シンジの場合、少し根暗な振りをするだけで、十分落ち込んでるように見えるから)

 横島にからかわれたような気がしたシンジは、ムスッとした表情になった。




 翌日、シンジは体調不良を理由にして、一日休むことにした。
 訓練のため、アスカやレイ、そしてトウジが部屋からいなくなると、シンジは外出用の服に着替えてから横島から預かっていた文珠を使う。
 シンジが文珠を使うと、目の前が一瞬白くなった後、すぐに木の門に埋め込まれた大きな鬼の顔が見えた。

「なんだ、シンジではないか」

「こんにちは、鬼門さん。横島さんは来てますか?」

「ああ。横島なら、もう着いておる」

「ありがとうございます」

 シンジは鬼門に会釈(えしゃく)してから、門を開けて妙神山の中に入った。
 門の中に入ると、庭を竹ぼうきで掃除していた小竜姫の姿が見えた。

「こんにちは、小竜姫さま」

「いらっしゃい、シンジ君」

 シンジは用件を切り出そうとしたが、その前に小竜姫の方から話しかけてきた。

「横島さんなら、台所で食事中です。それから、彼なら今、あずま屋にいると思います」

「わかりました」

 シンジは台所のある建物を通りすぎ、妙神山の広い敷地(しきち)の中を歩き始めた。
 建物から離れて崖の方に向かうと、見晴らしのよい場所に小さなあずま屋があり、そこに学生服を着た一人の少年の姿が見えた。

「カヲル君」

「やあ、シンジ君。ここは、とても景色がいい場所だね」

 カヲルは両手を学生ズボンに入れたまま、妙神山の外の景色を眺めていた。
 人里離れた場所にある妙神山からは、人の住む町や村はほとんど見えなかったが、その代わりに緑の広がる山々が視界いっぱいに広がっていた。

「……驚いた?」

「そうだね。初号機の手で(つぶ)されたかと思ったら、突然この場所にいたんだから」

「事情は聞いた?」

「ああ。ここにいる人たちから、詳しい話は聞いたよ」

 シンジはカヲルの横に並んで立つと、二人で同じ景色に目を向けた。

(おこ)ってる?」

 しばらくしてから、シンジがカヲルに話しかけた。

「なんのこと?」

「僕が……カヲル君の願いを聞かなかったから」

「怒ってないよ。落ち着いて考えると、僕も無理なことを言ったなとは思ってるんだ。
 だけど、あの時はああ言うしかなかったから」

 そこで会話がいったん途切れた。
 二人は黙ったまま、妙神山から連なる山の景色を眺めていたが、しばらくて今度はカヲルが口を開いた。

「シンジ君はなぜ、僕を殺さなかったの?」

「人殺しなんて、僕にはできないよ」

「でも言っただろ? 僕には死ぬ方法を選ぶことしかできないって。
 君は僕を助けたつもりかもしれないけど、僕にとっては、より緩慢(かんまん)で惨めな死に方が選ばれた
 だけなんだ」

「それは、この薬のことかの」

 突然、しわがれた男の声が二人の耳に入った。
 シンジとカヲルが後ろを振り返ると、そこにはカオスとマリア、そして横島の姿があった。

「横島さん! それにカオスさんとマリアさんも……」

 シンジは最近になって、マリアの主人であるドクターカオスと妙神山で会っていた。
 マリアについては、レイの件で以前に顔を合わせている。
 一方、カヲルは目を大きく開けながら、カオスの手にある小さなガラス(びん)に見入っていた。

「まったく、免疫(めんえき)不全の症状を抑えるためとはいえ、こんな劇薬を長期間使わせるとはな!
 おまけに、ネルフで対処できないよう、綾波レイの薬と成分を変えておる。
 本来なら遺伝子治療が必要なんじゃが、薬だけで誤魔化したところをみると、サード・インパクト
 まで体がもてばよいと考えておったんじゃろう」

「その薬を、いったいどこから!?」

 カヲルが真剣な表情で、カオスに詰め寄った。

「ワシらの仲間、まあ言ってもかまわんじゃろうが、魔族のワルキューレが昨日送ってきたんじゃ。
 成分解析は終わっておるから、同じものはいつでも作ることができる」

「ワルキューレは、今ゼーレの研究所を捜索しているんだ。これはその成果の一部ってわけ」

 横島が、カオスの発言を補足した。

「フッ……まったく、君たちには(かな)わないよ」

 カヲルがやれやれといった表情で、肩をすくめる。

「人と使徒以外の種族が存在する異世界の存在。そして、その異世界からの大規模な介入か。
 こんなこと裏死海文書のどこにも書かれていないし、ゼーレの老人たちが遅れをとるのも無理は
 ないかもね」

「カヲル君。その薬は何なの?」

 シンジがカヲルに(たず)ねた。

「僕も詳しくは知らないけどね、その薬を一定の間隔で投与しないと体の調子がおかしくなるんだ。
 もう数年前のことだけど、些細(ささい)なことで老人たちに反抗したとき、罰として薬の投与を打ち切ら
 れたことがあった。
 あの時は、本当に苦しかった。死の一歩手前まで、僕は追い込まれたんだよ」

「そ、そんな……」

「その時僕は、自分が(かご)の中の鳥にしかすぎないってことに、否応(いやおう)がなく気づかされた。
 それから僕は、自分の死について考えるようになった。
 どうせ生きられないと覚悟してたから、正直今はどうしたらいいのか、自分でも困ってるんだよ」

 カヲルが死なずに済んだらしいということはシンジにも理解できたが、当のカヲルは本気で途方に暮れた表情をしていた。

「まあ、しばらくはここで、身の振り方をじっくり考えたらいい。
 この世界で生きたければ、俺たちの方で居場所を用意するから」

 横島の提案を聞いたカヲルは、その場で深くうなづいた。

「横島さん。さっきカオスさんが、綾波の薬とか言ってたのは……」

「ああ。レイちゃんも、カヲルと同じような状態に置かれているんだ。
 種類は違うけど、似たような薬をリツコさんが定期的に投与している。
 まあ、俺たちでも同じ薬は作れるようになったし、一段落したら根本から治療するつもりだ」

「そうなんですか」

 カヲルの話を聞く中で、レイのことが心配になっていたシンジだったが、横島の説明を聞いてようやく安心することができた。



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